終活チャーシュー

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チャーシューの立場になって考えてみたい。
もし自分がチャーシューだったならば、ということだ。

写真は本文とは関係のないカツカレー。

そもそもであるが、僕はチャーシューに対してかなりポジティブな感情を持っている。

ラーメンのチャーシューは大きなよろこびであるし、それを食べる時には「よしチャーシューを食べるぞ」とちょっとかしこまった気持ちになる。

単なる具材ではなく、とくにラーメンにおいてはひとつ格上の存在、現代風に言うなればセンター的な役割だと認識している。

もちろん、メンマやほうれん草、なるとなど、他にも魅力のある具材はあるが、チャーシューは格が違うのではないだろうか。
輝きの熱量が他を圧倒している。

ともかく、僕はチャーシューとはそういう付き合い方をして生きている。

では、逆にチャーシューの立場からするとどうなるのだろう。

もし僕がチャーシューだったら、普通のラーメンのチャーシューでありたいと思うのだ。
ラーメンの上に一枚だけ乗せられたチャーシュー。
それが僕のチャーシューとしての理想だ。

けれど、チャーシュー麺のチャーシューの一枚となってしまったら、悲しい。

チャーシューとしての最期を、one of themとして迎えることは、僕には耐えられない。
孤高な一枚のチャーシューとして全てを終えたい。

ただ、そんな風に普通のラーメンのチャーシューとしてその時を迎えられたとしても、ラーメンに餃子をつけられてしまったら最悪だ。

チャーシューとしての魅力は、餃子のそれに打ち消されてしまう。

旅立ちの時、丼の隣に餃子はないか、そればかりが気がかりだ。

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