誰かに買ってきてもらった吉野家はうまい

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他人が握ったおにぎりが好きだ。

母や妻や、親しい友人や恋人が握ったおにぎりは、理由は分からないけど自分で握ったものよりおいしい気がする。
もちろん、「この人が握ったおにぎりは食べたくない」と思うこともなくはないが、誰かが握ってくれたおにぎりには、自分で握るのとは違う、なにか特別なおいしさがあるような気がする。

ひょっとすると、「自らおにぎりを握った」という、手のひらに残る記憶がおいしさを左右するのではないかと思い、「じゃあ自分で握ったということを忘れてしまえば、おいしく感じられるんじゃないだろうか」と、自分で握ったことを忘れるために、冷蔵庫でしばらく保存してみたことがあるのだが、その時は本当におにぎりのことを忘れちゃって(酔ってたから)、一週間後くらいに冷蔵庫の中からアルミホイルに包まれた玉を発見し、途方に暮れたことがある。

おにぎりに限らず、お弁当やサンドイッチなんかも、誰かが作ってくれた方がおいしい。

そして先日、僕は「誰かが買ってきてくれた吉野家の牛丼弁当はおいしい」ということに気づいた。

仕事や行楽の帰り道なんかに、「今日は牛丼弁当でも買って家でゆっくり食べようか」とテイクアウトしたことが何度もある。
数日前、妻が仕事で遅くなり、僕も家で忙しくしていて、「面倒だから夕飯は吉野家の弁当でいいや」ということになった。
外へ食べに行く時間も惜しいし、なにより外出がおっくうだし、手っ取り早くそうしようということになったのだが、その日妻が買ってきた吉野家の牛丼弁当がとてもうまかったのだ。

それで、今まで食べた牛丼弁当の数々を思い返してみたのだが、あれは自分で買ってくるより、誰かに買ってきてもらった方がおいしいのではないかと気づいた。
たとえばロケなんかで、「時間がないから吉野家でいいっすか?」という時に、誰かが買ってきてくれた吉野家は、確かにうまかったように思う。
コンビニの肉まんなんかも、誰かが買ってきてくれたものの方がうまいだろう。

「自分が買いにいかなくて済むからそう思うのでは」と思ったが、デリバリーのピザよりも、誰かが取ってきてくれたピザの方がおいしいということを僕は知っている。
やはりそれはきっと、「誰かが買いにいってくれた」という事実に人はおいしさを感じるのだろう。

世の中が便利になり、愛情とか手作りという情緒的なものが失われたと言われる昨今だが、「買ってきてくれた」というこのささやかな事実に対して情緒を感じる人間の感性というものは、なんと貴いのだろうと思うわけである。

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